11日は奇跡的な骨髄移植の17回目の記念日

2006年5月に骨髄異形成症候群(前白血病)が見つかり、その後、主治医の予告通りに急性骨髄性白血病へ移行し、年が明けた2007年1月11日に「息子からの奇跡的な骨髄移植(正確には違いますが、説明すると理解が難しくなるのでココでは骨髄移植と表記します)」をしてから17回目の記念日を迎えます。

当時のことを忘れることはないと思いつつ、徐々に記憶力が薄れてきてる実感が確かにあります。いけませんね〜。それを戒めるべく、毎年、この時期になるとかつての写真を見返すようにしています。

▲ 細胞が移植され、生存の望みがスタートした瞬間(at 無菌室)

▲ 11〜12日の二日間で6パックの血液が入りました

病院とはいまだに月一のお付き合いが続いており、10日も診察を受けてきました。
待合室の患者さんの中には、当時の自分のように移植が終わって再発をしていないかチェックをしている方や、あるいは、ひょっとして紹介状を持参して今日が地獄の宣告を受ける日になる方もいるかもしれないなと思いながらお呼びがかかるのをを待ちました。

もう17年目ともなるとベテラン患者の扱いを受け、主治医から「どうですか?」「特には。ちょっとだけ痒みが」「あ、そう。保湿剤とレスタミンコーワ軟膏出します」「ハイ」普通はこれでおしまい。
「大谷と山本がドジャースダルビッシュと松井がパドレス。今年は西海岸が熱いじゃないですか?」・・・・ううう、東海岸ボストン・レッドソックスをサポートしているのを知っててわざと振ってくるのが憎い(笑)。

ま、入院当時、主治医とはMLBの話題で話し込むこともあって、それがまた良好な関係を築くのに貢献したんですが、一旦、話し出すと主治医の話が長くて他の患者さんに迷惑が掛かっては申し訳ないってんで止めるのに、当時も今も苦労しています(笑)。

この文面を読んだ患者さんが気分を害しては困るので、言い訳しますと、待合室の患者数をチェックして、今日は多いなと思った時には早めに切り上げるように空気を読んでいるつもりです。

▲ 移植6日目、ストーブが体の中にあるように40度手前の高熱と格闘。
この後、間質性肺炎になって三途の川を渡りかけた。

▲ 移植8日目、白血球(WBC)がゼロに。0個~100個は0.1と表記される。
この時点で外敵からの抵抗力が無く最も危険な状況。他の数値もすべて低い。

思い起こせば、ほぼ1年間の入院生活は批判を恐れずに言うならば「パラダイス」でした。

看護師さんが日替わりで担当が変わり、毎日、笑顔で優しい言葉をかけられ、世間話にも花が咲き、それまでこんなにも多くの女性と会話することがなかったので、まさに天国。手術してまもなく退院する病気ではなく、一年や半年など長い入院になるのが当たり前だったので病院のスタッフとは絆ができたものです。一緒に戦うんだとの共通認識があって、不思議と死に直面している怖さを忘れさせてくれました。退院時には一人一人とツーショットの写真を撮りたかったのですが、病室内での看護師との撮影はNGだろうとの判断で自粛した結果、一枚も無いのがちょっと寂しいです。

あれから17年。あの頃、新卒で入ってきた新人看護師も今ではベテランの領域に入ったはず。採血の時に不安がっていた彼女らに「失敗してもイイからなんぼでも刺しな。実験台になってやる」と励ました自分は偉い!今はどこの部署にいるのかわかりませんが、立派な看護師になっていることと思います。エジプトに行ってみたいと言ってた、某女性看護師は夢が叶ったんでしょうか?知ってる方、いましたら教えて下さい(笑)。

人生、たった一度しかありません。仕事も大事ですが、仕事以外のモノに没頭する時間をもって楽しく生きようじゃありませんか。イジョ!

★闘病記(以下)

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